日露戦争では日本から国家規模の予算がレーニンに渡っている
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1904~1905年までの間、日本とロシアは開戦し旅順攻略戦、奉天会戦、日本海海戦等の戦闘で日本は勝利しポーツマス条約で講和が成立した。
この時に明石元二郎大佐は日露開戦とともに参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という肩書きで諜報謀略活動を開始した。その目的はロシア支配下の国や近隣の反ロシア勢力を支援し、ロシア国内の反政府勢力と連携し、ロシア国内の政情を不安化させ日本との戦争継続を困難にし、日本の勝利に貢献すると言うものであった。
そしてこの時期に明治政府から国家予算規模以上の工作活動資金が出ているのである。通常どこの国でも国家予算規模以上の金を出すとなれば当然、反対する者も居るため直ぐに出せる筈が無いのである。ところが直ぐに出している。これは日本国内の政治家が決めた事ではなく明治維新に関わったヨーロッパ勢力が指示を出した事による。通常、軍人である大佐に国家予算に匹敵する資金を預けるであろうか。通常軍が動く場合は武器と弾薬が主となるはずであるが、裏で密かに金を動かした人物が居ると見て間違いは無いと思われる。
また、歴史ではレーニンを支援したのはロスチャイルド家であり革命資金を出したとなっているが、最も資金を出したのは日本である。しかし日本が出した金は途中で出費者である日本の名前が途中でヨーロッパの某国に変更されているのである。だから、明石大佐の名前は世界史の中では表に出て来ないのである。
現代では1990年8月2日、イラクのクウェート侵攻により国際連合が多国籍軍派遣を決定し、1991年1月17日、イラクへの空爆から始まった湾岸戦争でアメリカは同盟国日本へ戦費の拠出と共同行動を求めた。
アメリカの要請を受け日本政府は90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)を出したが、クウェートには6億3千万円、アメリカには残り1兆790億円、またクルド人難民支援等の5億ドル(当時の日本円で約700億円)の目減りした補填分の695億円がアメリカに渡った。
クウェートは戦後、参戦国等に対してワシントンポストに感謝広告を掲載したが、130億ドルに上る出費をした日本はその対象外であった。
日露戦争も湾岸戦争もやり方は同じである。金を出した事は歴史に残らず、金を出してもクウェートから感謝されない。
日本はやはり独立国ではない。この体制が明治維新から現在まで続いているのである。